農業には多くの流通の形がある。
市場出荷、契約出荷、直売所、無人販売所、ネット販売。
どれが正解・不正解という話ではない。
それぞれに役割があり、それぞれに向いている農家がいる。
ただ私は、“市場を中心には選ばない”。
理由は単純で、その先にある“食卓の会話”が見えないから。
今日はその理由を静かにまとめてみたい。
■ 1. 市場に出すと「責任の行き先」が途切れる
市場出荷は効率が良い。
出荷した後は価格も売れ行きも市場に委ねられ、労力は少なくて済む。
ただ、その分だけ失われるものがある。
それは、
“誰が、どんな場面で、どんな表情で食べてくれるのか”
という一番大切な情報。
市場に並んだ時点で、作り手はその野菜と完全に離れる。
・美味しかったのか
・子どもが食べてくれたのか
・また買いたいと思ってくれたのか
その声が一切届かない。
私の農業の中心はそこにあるから、市場を主軸にはできなかった。
■【補足】市場に“全く”出さないわけではない
誤解のないようにしておきたい。
私は市場流通を全面否定しているわけではない。
万願寺とうがらしやナスのように収量が一気に増える作物は、
その日の鮮度を逃さないために市場へ出荷することもある。
市場も産直も、本来はどれも大切な流通であり、
価値を決めるのは場所ではなく“売り手の姿勢”。
誠実な扱いをすれば市場でも美味しい野菜は並ぶし、
逆に、どれだけ立派な農法を掲げても、
売り手が誠実でなければ結果は食卓に表れる。
私はただ、自分の農業の軸が
「食卓の会話が見える距離」にあるだけ。
その価値観が市場中心のスタイルには合わなかった、というだけの話だ。
■ 2. 感想が届かない農業は、改善ができない
農業は自然相手でもあり、同時に“お客さんの生活相手”でもある。
畑は作物の状態を教えてくれる。
だが、食卓の反応を教えてくれるのはお客さんだけだ。
・子どもが初めて食べてくれた
・夫婦で「今日これ美味しいね」となった
・お弁当に入れても喜ばれた
・去年より甘く感じる
こうした声が、次の栽培の判断につながる。
市場ではその声がゼロになる。
改善の種も、喜びの瞬間も返ってこない。
農業にとって、それは大きな損失だった。
■ 3. 多くの流通を通れば、鮮度も落ちていく
市場が悪いわけではない。
ただ、多くの流通を経れば、鮮度が落ちるのは必然である。
「ここの野菜は本当に美味しい」と言っていただくことがある。
その言葉はとても嬉しい。
しかし、その“美味しさの理由”を突き詰めると、
ほとんどの場合 “鮮度” に行き着く。
野菜を産地や生産者別に同時に食べ比べる機会は、品評会でもない限りまず存在しない。
家庭では「いま目の前にある野菜」だけを評価するしかない。
ほうれん草一つとっても、気温が下がった地域のものは自然と甘くなるし、
同条件で食べ比べること自体が不可能に近い。
だから、生産者ができる唯一の本質は
“その瞬間に最も美味しい状態で出すこと”。
そこに農法やラベルよりも強い価値がある。
■ 4. 「売れたら終わり」ではなく、「食べてもらって完結」
市場の魅力は効率・量・安定性。
それは農業の大きな武器でもある。
ただ私は、
“売れた瞬間に関係が切れる農業” に馴染めなかった。
作物は畑で終わらない。
お客さんの食卓で終わる。
「今日これ美味しいな」
「この味、久しぶりやな」
「これなら子どもが食べる」
その会話まで含めて、農業だと思っている。
だから、顔が見える距離でしか売らない。
■ 5. 無人販売所でも妥協しない理由
無人販売所はシンプルな場所。
だけど、距離が近いからこそ誠実さをごまかせない。
・その日の味のノリ
・収穫タイミング
・野菜同士の相性
・おすすめの食べ方
・作柄のリアルな声
こうした情報を“鮮度のまま”届けられる。
そして何より、無人販売所であっても、
味が乗っていないものは絶対に置かない。
作ったから出すのではなく、
食卓まで責任を持てるものだけ出す。
市場より小さな場所だけれど、
だからこそ成立する農業がある。
■ 6. 食卓の会話まで想像できる農業をしたい
市場に並んだ野菜は“商品”でしかない。
だが私にとって野菜は、食卓の会話の入口だ。
「これ美味しいね」
「この味、なんか懐かしい」
「これなら子どもが食べる」
そんな会話が生まれる景色を想像しながら畑に立つ。
その景色が見えない距離感の農業は、私には向いていなかった。
市場を否定するわけではない。
ただ、私の農業の“軸”がそこにない。
それだけのことだ。
■【まとめ】
市場を使わないのは効率を捨てた選択ではなく、
こだわりの押し付けでもない。
食卓の声が届く距離で、結果に責任を持ちたいから。
野菜は畑で完結しない。
食卓で完結する。
だから私は、市場を“中心には”選ばない。
その距離でしか作れない価値がある。
